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《発言全文》安保法案「違憲」とバッサリ、与党推薦の長谷部教授が語った「立憲主義」
憲法審査会で語る長谷部教授(衆議院インターネット審議中継より)

《発言全文》安保法案「違憲」とバッサリ、与党推薦の長谷部教授が語った「立憲主義」

国会で「安保法制」の審議が行われている最中の6月4日に開かれた衆議院の「憲法審査会」で、自民党、公明党が推薦した憲法学者の長谷部恭男・早稲田大大学院法務研究科教授が、与党の安保法制に「違憲」の評価を突きつける、異例の事態が起きた。

もともと、この日の議論のメインテーマは「立憲主義」だったが、民主党の中川正春議員が「率直に聞きたいんですが、先生方は、今の安保法制、憲法違反だと思われますか。先生方が裁判官となるんだったら、どのように判断されますか」と参考人の憲法学者3人に質問したところ、全員揃って「違憲だ」と明言するという展開になった。

菅義偉官房長官は同日夕方の記者会見で火消しに動き、「全く違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と断言した。一方で、憲法学者の南野森・九州大教授は《菅官房長官によれば、「全く違憲でない」と言う「著名な」「憲法学者」が「たくさん」いるらしい。是非ご教示賜りたい。》とツイートした。

●集団的自衛権の行使=「憲法違反である」

中川議員の質問に対して、自民・公明党が招いた参考人である長谷部教授の回答は、次の通りだった。

「安保法制は多岐にわたっておりますので、その全てというわけにはなかなかならないんですが・・・。

まずは、集団的自衛権の行使が許されるという点につきまして、私は『憲法違反である』という風に考えております。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明が付きませんし、法的安定性を大いに揺るがすものであるという風に考えております。

それからもう一つ武力行使、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなるのではないかという点ですが、その点に関しては『一体化するおそれが極めて強い』と考えております。従前の戦闘地域・非戦闘地域の枠組みを用いた、いわばバッファーを置いた、余裕を持ったところで明確な線を引く、その範囲での自衛隊の活動に留めておくべきものであるという風に考えております」

また、民主党推薦の参考人・小林節・慶應大学名誉教授と、維新の党推薦の笹田栄司・早稲田大政治経済学術院教授もそろって「違憲」と述べた。

●長谷部教授の「考え方」は?

長谷部教授は2014年3月まで東大で教授を務めており、90年代に自衛隊合憲論を唱えたり、2013年12月成立の「特定秘密保護法」に賛成を表明するなど、憲法学者の中でも「個性的」な人物とされている。ただ、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使について、新聞対談などで繰り返し反対の立場を述べていた。長谷部教授の考え方は、この日、審査会冒頭で12分間、「立憲主義」について話した内容に色濃く表れているため、以下、その全文を引用する。

●中世ヨーロッパは「キリスト教」が政治権力を制限していた

《本日はこのような形で発言の機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。本日は主に立憲主義についてお話を申し上げようと思います。

立憲主義という言葉は色々な意味で用いられますが、大きく「広い意味」と「狭い意味」を区別することができます。広い意味の立憲主義、これは、政治権力を何らかの形で制限する考え方、これを広く指して用います。例えば中世のヨーロッパにも立憲主義があったと、そう言われる時には、この意味で「立憲主義」という言葉が使われております。

中世のヨーロッパでは、当時の支配的な宗教であり、世界観であるキリスト教に基づきまして、何が正しい生き方かが、あらゆる人にとって決まっておりました。為政者についても当然、政治権力の正しい行使の仕方が決まっています。そして、それに違反をすれば、教会を破門され、臣下の服従義務が解かれる。そうしたリスクに晒されておりました。

また、ローマ教皇についても、彼が異端の思想に染まったときは、全クリスチャンの代表からなる公会議によって、あるいはさらに公会議を代表する枢機卿会議によって、教皇がその地位を追われる、それもあり得ると考えられておりましたし、実際コンスタンツの公会議におきましては、教会を分裂させた三人の教皇を廃位いたしまして、新たな教皇を選出しております。

キリスト教という一元的な思想、そして世界観に基づいて、政治権力も制限されていたわけです。

●「多様な価値観・世界観の共存」が近代立憲主義の前提

他方、現在日本を含めた先進諸国で共通に立憲主義として理解されておりますのは、「狭い意味の立憲主義」です。これは「近代立憲主義」とも言われ、近代ヨーロッパで確立した考え方です。

当時のヨーロッパは、一方では宗教改革後の激烈な宗派間の対立を経験し、他方では大航海時代でもありましたために、世界各地で多様な暮らしぶりや考え方に出会った経験から、人にとっての生き方や世界の意味づけ方が、これはただ一つには決まっていない、「多様な相互に両立し得ない価値観、世界観があるのだ」と、そのことを事実として認めざるを得ない状況におかれておりました。

宗派間の対立をとってみますと、プロテスタントにしろ、カトリックにしろ、それを信仰する人にとっては自分にとっての正しい生き方、世界の意味づけ方を教えてくれる大事な、かけがえのないものであります。

そうである以上、自分だけでなく他の人も全て信じてしかるべきだと考えるのが人としての自然の傾向でありますが、ただ、その自然の傾向のままに、各人にとっての「正しい信仰」をほかの人に押し付けよう、押し付けようとしますと、そうするとここに深刻な対立が起こります。

現在でも世界の各地におきまして、何が正しい信仰であるか、それがもとになって大変に激しい紛争が起こっていることはご承知の通りであります。

●どちらの価値観が正しいかという議論は「意味がない」

これに対しまして、近代立憲主義は、「価値観や世界観は人によって様々である」と、これを正面から認めるべきだと、そういう認識から出発をいたします。多様な価値観、世界観について、いずれがより正しいかを議論しても「意味がありません」。客観的に比較するものさしが、そもそもそこにはないからであります。

どのような世界観、人生観を持つ人であろうと、人間らしい平和な社会生活を送ることができるようにするためには、どのような社会のあり方、それを基本とすべきか、それをまず考えるべきだということになります。ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった近代立憲主義の基礎を築いた政治思想家たちは、いずれもこの問題に解答しようとした人たちであります。

●「私の領域」と「公の領域」を区別して考える

近代立憲主義はそうした社会生活の基本的な枠組みといたしまして、公(おおやけ)と私(わたくし)とを区分することを提案します。

私(わたくし)の領域におきましては、各自がそれぞれ「自分が正しい」と思う世界観に従って生きる自由が保障されます。志を同じくする仲間や家族と生きる自由も保障されます。

他方で、社会全体の共通の利益にかかわる公(おおやけ)の領域におきましては、各人が抱いている世界観はひとまずわきに置いて、どのような世界観を抱いている人であっても人間らしい、社会生活の便宜を享受するためには、何が必要なのか。各自がどのようにコストを負担すれば、公平な負担と言えるのか、それを落ち着いて理性的に話し合い、決定をしていく必要がございます。

日本国憲法もそうですが、近代立憲主義に立脚する国々の憲法、これは基本権、憲法上の権利を保障する条項を定めていることが普通です。

それらは一方では、私(わたくし)の領域におきまして、それぞれの人が自らの信ずる宗教を奉じ、各自が正しいと考えることを表現し、プライバシーの守られる空間で、自らの財産を使いながら生きる自由を保障します。

自由な私(わたくし)の領域を確保するためのさまざまな権利が保障されております。

他方で、報道の自由、取材の自由、結社の自由、参政権と、主に公の領域におきまして、社会全体の利益を効果的に実現するために何が必要か。それを理性的に審議し決定するために保障されているさまざまな権利もあります。

そうした権利に支えられた民主政治の具体のプロセスについて定める統治機構に関する規定も、これももちろん備えられております。

●憲法が改正しにくいのは「人が感情や短期的な利害にとらわれがち」だから

こうした近代立憲主義に立脚する憲法、これは通常の法律に比べますと変更することが難しくなっていること、つまり硬性憲法であることが、これまた通常でございます。

いま述べました基本的人権を保障する諸条項、民主政治の根幹に関わる規程、これは政治の世界におきまして、選挙のたびに起こりうる多数派・少数派の変転や、たまたま政府のトップである政治家の方がどのような考え方をするか、そういったものとは切り離されるべきだから。つまり、その社会の全てのメンバーが中長期的に守っていくべき基本原則だからというのがその理由であります。

また、憲法の改正が難しくなっている背景には、人間の判断力に関するある種、悲観的な見方があると言ってもよろしいでありましょう。

人間というのはとかく、感情や短期的な利害にとらわれがちで、そのために中長期的に見たときには合理的とは言いがたい、自分たちの利益に反する判断を下すことがままあります。

ですから、国の根本原理を変えようというときは、本当にそれが将来生まれてくる世代も含めまして我々の利益に本当に繋がるのか、国民全体を巻き込んで改めて議論し考えるべきだ、ということになります。

それを可能とするために憲法の改正は難しくなっております。

さらに、改正を難しくするだけではなく、国政の実際においても、憲法の内容が順守され、具体化されていくよう、多くの国々では違憲審査制度が定められております。

●戦前の日本も「近代立憲主義に基づく国家とは言いがたかった」

近代立憲主義の内容とされる基本的人権の保障、そして民主的な政治運営は、ときに普遍的な理念、普遍的な価値だと言われることがあります。

ここで普遍的というのが、世界の全ての国が、大昔から現在に至るまで全てこの、近代立憲主義の理念に沿って運営されてきたと、そういう意味であればこれは正しい言い方ではございません。

実際には、現在でさえ、こうした理念に則って国政が運営されているとは言いがたい国は少なからずございます。

また、日本も第二次世界大戦の終結に至るまでは、この近代立憲主義に基づく国家とは言いがたい国でありました。

●日本国憲法には「改正の限界」がある

さらに民主主義について申しますと、19世紀に至るまでは、民主主義はマイナスのシンボルではあっても、プラスのイメージで捉えられることはまずなかった、と言ってよろしいでありましょう。

それでも現在では、「基本的人権の保障」や「民主的な政治運営」は、普遍的に受け入れられる「べき」ものとされております。

ただ問題は、憲法典の中に基本的人権を保障する条項、民主的な政治制度を定める条項が含まれているか否か、それには限られておりません。

これらの条項の前提となる認識、つまり、「この世には人としての正しい生き方、あるいは世界の意味や宇宙の意味について、相互に両立し得ない多様な立場があるということを認め、異なる立場に立つ人々を公平に扱う用意があるか」。それこそが実は普遍的な理念に忠実であるか否かを決している、ということができます。

そして、近代立憲主義の理念に忠実であろうとする限り、たとえ憲法改正の手続を経たとしても、この理念に反する憲法改正を行うことは許されない、つまり「改正には限界がある」ということになります。

●国独自の理念・制度は「近代立憲主義と両立」する範囲内でなければならない

ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合で言えば、天皇制や「徹底した平和主義」がこれにあたるでありましょう。

こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、これもその時々の政治的多数派・少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ憲法に書き込まれているということになります。

もっともこれら、国によって異なる理念や制度は、普遍的な近代立憲主義の理念と両立しうる範囲内にとどまっている必要があります。つまり、特定の人生観や宇宙観を押し付けるようなことは、近代立憲主義のもとでは、憲法に基づいても認められないということになります。

「憲法を保障する」という言葉も色々な意味で使われることがございますが、現在の日本で申しますと、価値観や世界観、これは人によって様々である。しかしそうした違いにもかかわらずお互いの立場に寛容な人間らしい暮らしのできる公平な社会生活を営もうとする、そうした近代立憲主義の理念を守るということ、そして憲法に書き込まれた日本固有の理念や制度を守り続ける、それが憲法を保障することのまずは出発点だということになるでありましょう。

以上、誠に雑ぱくな話でございますが、以上で立憲主義に関する私の説明を終わらせていただきます。


どうもご静聴ありがとうございました。

(弁護士ドットコムニュース)

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