過労死問題に取り組み国と社会を変えた四半世紀 川人博弁護士ロングインタビュー

安倍晋三総理が、2016年に異例の言及をした大手広告代理店の女性社員の自殺。同じ電通における四半世紀前の自殺を巡って、2000年に「過労自殺」と「企業責任」の関係を最高裁に認めさせた。従来の常識にとらわれず、自身の志と信念を拠り所に弁護士活動を続けてきた川人博弁護士。その激動の半生を語る。
取材・文/山口和史 Interview&text by Kazushi Yamaguchi 
写真/板山哲也 Photo by Tetsuya Itayama(Studio Gmac) 
川人法律事務所 弁護士 川人博氏 Hiroshi Kawahito
(弁護士ドットコムタイムズ<旧・月刊弁護士ドットコム>Vol.17<2017年2月発行>より)

目次

  1. 弁護士に求められるものは何か 活動の原点にある「志」
  2. 弁護士としてのジレンマ 苦渋に満ちた「相談」
  3. 画期的な最高裁判決が日本の行政を変えた
  4. 最高裁判決から変わったものと変わらなかったもの
  5. 通説にとらわれるな 頼るべきはその「志」

弁護士に求められるものは何か 活動の原点にある「志」


私の時代と現在と、弁護士を取り巻く状況が大きく異なることはもちろん承知した上でですよ—と前置きして語る。

「弁護士にとっていちばん大事なのは『志』なんだと思うんです。計算ではなくて『志』です。なんらかの問題を目の前にしたとき、『この人は救済されなければおかしい』と考えるかどうか。『そのためにできる限りのことをやろう』と考えるかどうか。この点が一番大事で、その事件で経済的な採算がとれるかどうかということを最初に考える、あるいはそれが重要なウェイトを占めてくるとですね、やはり過労死問題のような人権が密接に係わる事件というのは、なかなか入りにくいですよね」

弁護士・川人博氏。労働問題、過労死問題における日本のオーソリティとして知られる。1988年に「過労死110番」の活動に参加して以来約30年にわたって、主に過労死問題に注力して弁護士活動を続けてきた。

「なぜこういうことを強調するかというと、世の中では次々と新しい問題が起こるんです。そういう新しい分野の問題を手掛けるには計算してはダメなんです。やっぱりその人が持っているリーガルマインドで、この問題は司法においてしっかりと正当に権利が救済されるべきである、権利を主張するべきである、そう信じたときに弁護士であるその人が持っているリーガルマインドで取り組もうとするかどうかなんですよ。そのリーガルマインドがそれなりの根拠があるものであれば、それは1年先か5年先かわからないけれども、いつかは社会的な評価を得て、裁判所からも評価を得る時代が来ると思うんですよね」

川人氏の弁護士としての半生は、この「志」と「チャレンジ」に彩られている。身のリーガルマインドに則って、計算せずに挑戦し続けた結果、川人氏は日本の人権史において画期的な判決を勝ち取ることになる。2000年3月24日最高裁判所第2小法廷で下された「電通事件最高裁判決」。川人氏とその仲間たちはその日、長年立ち向かってきた大きく厚い壁に、ひとつの穴を穿つ。その日以降、日本の労働問題、過労死問題は行政面において大きく前進していく。ここで詳細について語っていく前に、時計の針を巻き戻し川人氏の「原点」について振り返ってみたい。

弁護士としてのジレンマ 苦渋に満ちた「相談」


のちに労働問題で日本を代表する弁護士のひとりとして名を挙げる川人氏の弁護士としてのキャリアは、1978年から始まった。

「1年って365日ありますよね。弁護士になって1年目はそのうち364日働きました。1日しか休めませんでしたよ。過労死弁護団としてはあってはならない状態ですよね(笑)」

この「駆け出しの時代」は、川人氏に2つの思いを抱かせたという。

「いまから振り返れば光と影があるんですよ。弁護士として糧になった部分とそうでない部分とね。実はその駆け出しの時期に子供が生まれました。ところが、およそワークライフバランスとはかけ離れた生活でしたから、子供を妻と一緒に育てるといった経験をしていないんですよね。これは私の長い人生において弱点じゃないかと思うんです。弁護士として研鑽が積めてよかったでしょと言われるとそうかもしれない。ですが、引き換えに僕は子供のおむつを替えることもほとんどなかった。これは僕だけではなく同世代の男性はそういう方が多いかもしれないけどね。これは良くなかったと思います。光と影、一長一短だと思います」

入所してからの10年間は、ありとあらゆる事件を担当した。

「刑事事件も多かったんですよ。殺人事件の弁護もしたし、交通事故の弁護、あるいは当時は第1次サラ金ブームの時期なんですよ。そういったこともやりましたし、売掛代金の回収とかも手掛けましたね。また、相続とか離婚とか弁護士として考えられる領域はほぼ全部初めの10年間でやったと思います。これは弁護士としてのスキルを身に着けていく上でとても大きかった。いろんな事件を10年間にわたって手掛けることができたということが、その後、過労死問題をやっていく上でも重要な基礎となってくれました」

がむしゃらに弁護士としての活動を続けていく中で、1988年、大阪で「過労死110番」がスタートしたことを川人氏は知る。

「1980年ごろから『急性死』という名称で過労死に関する問題は広がっていたんです。サラリーマンが突然クモ膜下出血で倒れて亡くなる、こういう事件を弁護士として私も手掛けていたんですね。当時は過労死という言葉はまだ一般には使われていなかったのですが、急性死事件として何件も取り組みました。当時私が深く取り組んだのは、島根県松江市で損害保険労働者が突然クモ膜下出血で倒れて亡くなる事件があった。その事件の実務的な中心を担当しましたので、しょっちゅう島根まで行っていました」

弁護士を志していたころから、人権問題や弱者救済に関心が高かった川人氏は、「過労死110番」の活動に参画することを決めた。

「大阪で『過労死110番』がスタートして、たいへん大きな反響を呼んで、全国展開するということになった。その運動に私も参加したんです。大阪の動きを受けて、弁護士と医師の共同作業で全国に展開しました。とにかく電話が鳴り続けるんですよ。ずっとです。鳴り止まないんですよ。そういうすごい反響だったんですよね」

過労死110番がスタートしたのは1988年。しかし、問題自体は70年代の2回のオイルショックでリストラが始まり職場での労働過重が進んでいって以降、すでに顕在化し始めていた。そこから約10年。ほとんどのケースは個人責任とされ、遺族も救済されることなく放置されていた。

「そういった過去のケースのご遺族からもまとめて電話が入りますから、開設直後の1年2年は文字通り電話が鳴り止まない状況でしたね。これはどうにかしないとと」

過労死110番での活動を始めてからの数年間を思い返したとき、川人氏には2つの思いが去来する。

「当時の記憶を振り返ると1つは電話が鳴り止まない。面接相談を設定すると殺到する。そういうことですよね。また面接相談の弁護士の確保がたいへんだという状況だったんですよね。そういういわば反響の大きさに驚いていたということがひとつですよね。それほど多くの人が亡くなっているということです。もうひとつが対照的に、まったく行政が冷たいということだったんですよ。

労基署に労災認定を求めるというのが基本的な実務作業だったんですけど、ほとんどすべてが認められない。だいたい申請したうちの2〜3%くらいしか認められないんです。これは当時の司法試験の合格率と同じくらいですよね。この鳴り止まない電話と行政の壁の厚さ、両方が驚きでありショックであり、後者の分に関してはすごいストレスですよね。大変なストレスでした。そういう時代が初めの数年間の思い出ですね。記憶としてあるのはその2つです」

大いなるジレンマを抱えながらの活動となった。せっかく電話相談を受けても、せっかく面談して相談を受けても、希望的な回答をしてあげることができない。

「『労基署に労災申請しましょう、だけどたぶん無理ですよ』と相談を受けながら言うんですよ。『これ、私は労災だと思います。ですが、高い確率で労災として行政は認めないですよ』と話さなければならないのは、とてもキツかった」

大きな反響とその反響に対してあまりに小さな成果。過労死110番の活動を、当時ある人は「壮大なゼロ」と評した。

「その壮大なゼロというのは壮大=圧倒的な反響、圧倒的な相談、このことです。メディアも反応していましたしね。ゼロ=ほとんど成果が上がらない。救済の成果が上がらない。労災救済の成果が上がらない。当時私はこの言葉に反発しましたけど実際そうだよなと思いましたよ」

過労死110番の活動を続けていく中で、当時多くの弁護士たちは行政訴訟を中心に考えていた。労基署がダメだったら最終的には行政訴訟で労基署の間違った決定をひっくり返す、これが正しい方策ではないかと可能性を探っていた。一方、川人氏には別の考えがあった。

「僕はもっとダイレクトに企業の責任を追及して企業相手の訴訟をどんどんやるべきだと問題提起したんですね。企業相手の訴訟だったらすぐできるわけですから。ダイレクトに企業相手に訴訟をするということを私は提案したんですね」

行政訴訟を進めるためには、まず労基署に労災申請を行う必要がある。ここからすぐに結果が出るならともかく、当時は申請してから2〜3年経って業務外決定が出ることも珍しくなかった。長い間待たされた挙句に業務外決定が出る。遺族には期間的な負担と経済的な負担の両方が重くのしかかってしまう。

「91年に私は本格的な著作を初めて出しました。『過労死と企業の責任』という本ですが、その本に凝縮されるような問題提起をやって、どんどん企業相手に訴訟をしていこうと投げかけました。私自身もいくつかの訴訟を提起しました。たとえば当時の富士銀行(現・みずほ銀行の直接の前身)の女性行員が喘息で死亡したケースの提訴は、大きな社会的な反響を呼び起こしました。そして全国的にも同じような意見を持つ人が企業相手の訴訟を始めたんです。そのひとつが1991年に亡くなり、1993年に始まった電通の大嶋一郎さんが亡くなった事件の訴訟です。大嶋さんの事件では、私は最高裁段階から大嶋さんの遺族代理人となったのですが、これらの提訴が、結果的には良かったと思います」

やがて行政の動きを大きく変えていくことになる2000年の最高裁判決。その第一歩が踏み出された。

画期的な最高裁判決が日本の行政を変えた


大嶋一郎さん(当時24歳)は、大学卒業後、90年4月に電通に入社する。当時の電通では残業における「月別上限時間」が定められていたが、実際には形骸化しており、過重労働がいわば日常化していた。調べたところ、大嶋さんの残業時間は月平均で140時間を超え、91年ころからは徹夜勤務も恒常化していたという。やがて大嶋さんはうつ病に罹患、自ら命を絶ってしまう。遺族は死亡原因の調査を会社に求め、当時の社長にも丁寧な手紙を書いた。電通側はそれを無視。会社に安全配慮義務違反はないと突っぱねるのに及んで、遺族は提訴に踏み切った。

「過労死110番のなかで、1991年ごろには自殺の問題も手掛けないといけないという自覚が芽生えていたんです。それで不十分ながら自殺研究の分科会なども行っていて、そこにご遺族もお見えになっていたんです。そうするとご遺族も励まされますよね。取り扱っている団体があるんだと。それと大きかったのは医師ですよね。精神科医の協力があった。ご遺族にも精神科医の方が『仕事が原因でうつ病になって亡くなったと考える』とそういう意見をはっきり言ってくれて、意見書を裁判所にも出してくれるということで専門家の医師の協力が得られた。こういったことがおそらくは原告ご本人が提訴をする条件を作ったと思います。原告ご本人が非常にしっかりした方だったということは大前提ですけれどもね」

1996年に東京地裁で出された第一審では完全勝訴。「長時間労働」と「うつ病」、「自殺」の間に「相当な因果関係」を認める結果となった。加えて会社側の安全配慮義務不履行の過失に対し、1億2千6百万円の損害賠償を命じる結果となった。

「裁判が始まってからは当時、企業責任追及の訴訟が結構起こっていた。電通事件ほど有名ではないけど、各地でいくつか勝ち始めていました。そういうなかで1996年に東京地裁の一審判決で大嶋さんの事件が完全勝訴したわけです」

途中、第二審で事態は一歩後退するものの、2000年3月、ついにその時を迎える。最高裁判決では大嶋さんの自殺の原因を会社に強いられた長時間労働により発症したうつ病が原因と認めた。そして、差し戻し控訴審で訴訟上の和解が成立。遺族への謝罪と1億6千8百万円の支払いとなった。

加えて、日本で初めて最高裁が過労死事件について企業責任を認めた判決となった。

「壮大なゼロ」と揶揄された過労死110番での活動が、ようやく大きな実を結んだ瞬間だった。

最高裁判決から変わったものと変わらなかったもの


「あれだけ冷たかった行政が、この判決を機に大きく変わったんですよね。最高裁が2000年に判決を出してから、2001年、2002年と相次いで過重労働の防止に向けた重要な通達を出したんです。また、過労死の労災認定基準も新たに作られるわけです。最高裁判決以降ですね。一番大きいのは過重労働の規制という意味で厚生労働省が結構いい通達を出して取り組むようになった。最高裁判決前にはなかったことですね。判決が持っている影響というのは非常に大きいと思います」

さらに2014年には過労死防止法が制定され、昨年には「過労死白書」の刊行もなされた。あれほど動かなかった、あれほど冷たかった行政側は変わった。しかし、一方で変わらないこともあった。

「しかしながら、職場なんだよな。2000年以降というのはIT化が社会に急速に進んだ時代で、IT化の影響で労働強化、長時間労働化、労働密度の過重というのがこの15〜6年間広がったと思うんですよね。ですから、最高裁判決の影響を受けて、安全配慮は尽くさなければならないという方向を出されるし、厚生労働省も通達を出すという動きがあるんだけど、他方でIT化の流れのような労働強化する方向での職場の動きはずっと広がっている。

加えて日本ではいわゆる長い不況、失われた20年という時代が続きましたね。途中にはリーマンショックがあった。全体として経済がキツイ時代で、キツイ時代はメンタルにとても悪い影響を与えるんですよね。精神的な病気を多く発生させてしまう。一方では改善しようという動きはあるんだけど、他方では20世紀にはなかったような新しい労働強化の促進要因が増えてきて、結果的に見るとほとんど何も変わっていないよねと。もちろんなんの努力もしなければもっとひどかったと思うし、我々の活動の効果はゼロではなかったと思うんですが、でも2000年といまと比べて日本の職場はどうなのと見たら変わっていないよね、改善されたとはいえないよねと過労死問題の目でみたら言わざるをえないよね」

日本の職場は何も変わっていない、この言葉を裏付けるように、電通では2016年、新たに自殺者を出してしまう。川人氏は現在、この第2の電通事件も手掛けている。

通説にとらわれるな 頼るべきはその「志」


かつて、ある人物から川人氏はこんな言葉をかけられたという。

「川人さん、過労死問題に目をつけるなんて経済戦略家として優れていますねなんて言われるんですけど、そんなことはまったく考えていなかったんですよ(笑)。そういうことは考えないで人権問題や社会問題に長い時代、弁護士は取り組んできて、結果的には収入的にもそれなりのバランスが取れるようになる。ならない事件もありますよ、だけどなることもある。若い人にこういったことを話してもね、お説教に聞こえると思うんですよね。ですが、人権的な側面が強い事件と経済的な面をどうやって両立させていくかということ。このあたりの問題を若い弁護士諸君は我々のとき以上に直面せざるを得ない、考えざるを得ない時代だと思うんですね」

自身の志、信念にしたがって弁護士として生きていく。川人氏には以前携わったある事件が記憶に残っている。

「10年近く前になりますけど、ある女性教員が学校の守衛に殺害されて、守衛の自宅にずっと埋められていたという事件があったんですね。殺人を犯したあと被害者の遺体を自宅の庭に埋めていた。それで20年以上経っちゃったんです。ところがある日、ご遺体が出てきた。ワイドショーを見てたらある弁護士さんが『これは刑事上も民事上もムリですね』と言っているわけですよ。時効の規定がどうこうといって。そんなものはおかしいよねって。それで依頼者と知り合いのルートを通じてコンタクトを取り、この事件を受けることにして、最高裁まで行ってこんなことで相手が民事責任免除されるなんてひどいと訴訟を起こして、一審は時効(除斥期間)だと言われたが、二審で逆転勝訴し、最高裁で維持されて確定したんですよ。そして、相当の賠償金も獲得した」

通説にしたがって考えたらこの事件に勝ち目はなかった。勝ち目もないしお金にもならないと計算していたら手掛けることはなかった。川人氏は自身のリーガルマインドに則って、「これはおかしい」と立ち上がった結果、新しい「通説」を作り上げた。

「昔と違ってパソコンで判例はパパっと出てくるよね。若い弁護士に調べてと頼んだら、昔だったら一週間かかったものが1〜2時間で出てくる。そこまではいいんだよ。でもそこから『この事件はムリですね』となってしまう。本当にムリだったらしょうがないよ。社会的な相当性がないならね。でもね、判例通説にはおかしなものがたくさんあるの。自分の正義感や自分のリーガルマインドでおかしいと思ったことに関しては、通説を変えるために闘う。そういう立場からご遺族と相談する。この辺のことが最近一緒にやっている若い人たちと会話していて、強調しておきたい点なんだよね」

大きな壁に立ち向かい、常識を打ち破ってきたその活躍の裏には、高い志と信念があった。

Profile|川人博氏 1949年大阪府泉佐野市生まれ。東京大学経済学部卒業。1978年弁護士登録、30期。文京総合法律事務所を経て、1995年に川人法律事務所を設立。過労死弁護団全国連絡会議幹事長を務める他、厚生労働省・過労死等防止対策推進協議会委員。また1992年から、東大教養学部「法と社会と人権」ゼミナール講師を務める。被害者や著名ジャーナリスト、弁護士などを招いた内容は、東大の人気授業の1つ。「過労自殺」「就活前に読む会社の現実とワークルール」など労働関連の著作のほか、北朝鮮問題や人権を扱った著作など多数。

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