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「女優を追い込み、脱がす」昭和の映画制作にさらば 「ハラスメントなき芸術」白石和彌監督の挑戦
「社会はいつの時代も常に変化してきた。アップデートしていくべき部分と譲れない部分とのせめぎ合いの中で、まだまだ面白いものはつくっていける」と語る白石和彌監督

「女優を追い込み、脱がす」昭和の映画制作にさらば 「ハラスメントなき芸術」白石和彌監督の挑戦

「この女優を脱がせられるかどうか、あとは監督の腕次第だな」。日本の映画業界では、そんなことが当たり前のように語られてきた。セクハラ、パワハラの観点では、完全にアウトである。

一方で、撮影現場での監督と俳優の尋常ならざる熱量が化学反応を起こし、時として誰も予期しなかったような名シーンを生み出してきたのも、また事実である。

芸術活動と労働環境。そこに果たしてどのように折り合いをつけていくべきかーー。

「アートって言ったって、スタッフや俳優にとっては労働ですよ。当たり前です。労働者として守られるべき存在であることに、1ミリも疑いはない」

こう断言するのが、保険金殺人による錬金術を扱った『凶悪』(2013年)や北海道警の組織的裏金づくりを題材にした『日本で一番悪い奴ら』(2016年)など、時代をえぐるような骨太作品を連発してきた映画監督の白石和彌さんだ。

今夏に新作『孤狼の血 Level2』(配給:東映)の公開を控えた白石さんだが、昨年、同作のクランクイン前にスタッフ・キャストに向けたハラスメント防止の研修会「リスペクトトレーニング」を取り入れた。東映映画としては初の試みだったという。

いっぽうで白石さんは、破天荒エピソードで知られる若松孝二監督を師と仰ぎ、怒号が飛び交うのが当たり前の現場で経験を積んできた。ハラスメントへの問題意識を抱くに至った経緯と、今の日本映画界に対する思いを聞いた。(ライター・大友麻子)

●追い詰めて「脱がせる」のではなく、言葉を尽くして説明すべき

ーー何をきっかけに「リスペクトトレーニング」を実施しようと?

Netflixの日本オリジナル作品『全裸監督』で、そうした研修が行われたことを知ったんです。自分の行動の何がセーフかアウトか、といった自分本位の発想ではなくて、相手を「リスペクト」するという相手への視点。Netflix、さすがだなと思いました。

『全裸監督』はAVの話なので、センシティブなシーンでは特に、現場に入るスタッフを必要最小限にし、俳優のメンタル面も含めてケアする専門家もいたと知って感動したんですよね。当たり前のことなのに、日本の映画製作の現場ではどうしてもおろそかにされがちな部分でしたから。

ーーこれまでの現場であれば、「この女優を脱がせられるかどうかは監督の腕次第」というような発想で回してきた現場も少なくない

「監督の腕次第」って言ったって、現場で全員がスタンバイしてて、もはや女優がイヤって言えないような状況に追い込んでいくわけでしょう。そんなフェアじゃないことが、「監督の腕次第」みたいな言い方で、今に至るまで、あちこちの現場で起きているわけです。

俳優さんだって、思いは一緒ですよ。いい作品にしたいんです。であるならば、なぜここで脱ぐ必要があるのか、その意図を言葉を尽くして説明して、同意をもらうべきじゃないですか。それを、だまし討ちみたいなことをしなければ撮れないシーンって、一体何なんですか、と思うわけです。

俳優だけでなく、スタッフに対しても体育会系のパワハラみたいなことが当たり前のように繰り返されてきた。

もちろん、ぼくも同罪です。助監督時代、監督の意を汲んで技術部と喧嘩するのは自分の役割だと思っていたし、自分の下についた助監督を蹴飛ばしたこともある。こういうことに耐えながら一人前になっていくものだと思い込んでいましたから。

ーー監督を頂点としたヒエラルキーを守ってきたわけですね。そうした現場のありように対して、ちょっと待てよ、と思うようになったきっかけは?

やはり自分が監督になってからですね。みんなが作品をつくるために本当に一生懸命やってくれているのがわかるわけです。

だけど、その一生懸命さが行き過ぎると、嫌がるスタッフに無理強いをしたり、時に暴力的になったりといったハラスメントになってしまう。

監督になると、渦中にいるようで、ちょっと引いて現場を見ているようなところがあるんです。そういう立場になったことで見えてきたものがあった。これは何だ、非常にまずいじゃないか、と思いました。

だから、自分の現場では割と早い段階から、ハラスメントはやめて欲しい、大声で怒鳴ったりすることもしないで欲しいと、スタッフのみんなには話していました。

ponsulak / PIXTA

●成功体験の裏側で、踏みにじられてきた声があるはず

ーーそもそも、白石さんがこの業界に入って最初についたのが、過激なエピソードで知られる若松孝二監督でしたね。独立プロの看板を最後まで守り続け、時代を撃つような作品をたくさん残しましたが、一方で撮影現場では常に怒号が響いていたという面もある

若松さんのぶっ飛んだ現場の熱量はありますよね。制作資金調達の手段が万引きとか、助監督になるにはレコード1枚くらい盗めないと一人前じゃないとか、めちゃくちゃですよね。

でも、世の中で当たり前とされていることを常にひっくり返していくことで出てくるエネルギーが、若松さんの作品の力になっていたことは間違いない。

そういうめちゃくちゃな中で、ものづくりをしていく面白さは確かにあって、そういうものを残しておきたくて、黄金期の若松プロダクションを描いた『止められるか、俺たちを』(制作配給:若松プロダクション・2018年公開)を、かつての若松プロの仲間たちとつくったわけです。

若松プロダクション黄金期を描いた『止められるか、俺たちを』撮影中のひとコマ。写真手前中央が、若松孝二監督を演じる井浦新さん。後列左から白石さん、カメラマンの辻智彦さん、助監督の井上亮太さん。いずれも若松組で苦楽を共にしてきた仲間たちだ(写真提供=若松プロダクション)

でも、ぼくを含め、同作の脚本を書いてくれた井上淳一さんや、若松孝二を演じてくれという無茶振りに応えてくれた井浦新さんはじめ、みんな、若松孝二と関わることで何かしらを得て、それを今の自分の仕事の血肉にすることができた人たちばかりです。

そうやって生き残ってきた人たちの成功体験が、本になったりインタビューされたりすることによって、ハラスメントじみたエピソードが武勇伝になってしまう。

ですが、その後ろには、若松プロの空気に馴染めず、途中で去っていった人たちが山のようにいるはずです。

その象徴ともいえるのが、『止められるか、俺たちを』で主演の門脇麦さんが演じてくれた当時の助監督の吉積めぐみさんでした。めぐみさんは、若松プロで大きな壁にぶつかり、最終的には命を落とします。

若松プロが疾走してきた背後には、異論を言葉にできずに諦めていった人たち、声なき声の人たちが死屍累々じゃないかと思うんです。

●作品では自由・平等をうたうのに現場では…

ーー誰かを犠牲にしなければならないような現場のあり方はおかしい、と

若松さんが自伝本でも書いていますが、例えば、原田芳雄さんみたいな主演俳優には怒れないから、現場で助監督を理不尽に怒鳴りつけることで遠回しに芳雄さんへの怒りを伝えていた、というエピソードがあります。

昔、その話を若松さんから聞いた時、なんて頭がいいんだろうって単純に感心したんですが、いざ自分が監督の立場に立ってみると、その方法論の意味がわからなくはないけれど、納得できなかった。

自分たちが面白おかしく若松さんのエピソードを語っていた裏側で、武勇伝にしやがって、ふざけんな、と悔しい思いを抱えていた人たちがきっといたはずです。

でも、それは若松さん一人の問題では決してない。ぼくは若松さんが師匠だから、心の中で(ごめんなさい)と思いながら話してしまうわけですが、同じような構造は今現在もいろいろな現場で続いている。

作品では自由や平等をうたっている人が、現場ではすごく権威的になって自分への批判は許さないとか、独裁者みたいにふるまうなんて、本来、おかしな話だと思います。

●「予算足りない」で理不尽を放置したらダメ

それで『孤狼の血2』のクランクイン前にリスペクトトレーニングを実施したわけですが、そのことが記事になって出たあと、出演者の一人である滝藤賢一さんから「監督、ありがとう」と声をかけられました。

俳優さんって、僕ら以上に、いろんな現場を経験していますよね。そして、僕らが思う以上に、下っ端のスタッフが怒られる現場を数限りなく目撃しているわけです。

やっぱり、コメディだろうがピリついたシーンだろうが、目の前でスタッフがめちゃくちゃにやられているのを見たあとで、気持ちよく芝居なんてできないですよ。現場がピリつくことでピリついたものがスクリーンに映るなんて言われたりしますが、プロが演じてプロが撮っているんだから、監督もそこでプロとして演出する努力をすべきだと思う。

撮影って、一定期間でクランクアップしますから、例えば2カ月間、歯を食いしばっていれば終わりがきます。終わりがあると思えば、しばらくは理不尽な扱いにも耐えられると。でも、それって働く環境として普通じゃないだろう、と思うんですよ。

そんな環境を「予算もないし」というようなエクスキューズとともに放置していたら、映画を仕事にしたいと思う若い人たちはいなくなります。若い人たちに入ってきてもらえなかったら、日本映画に未来はないじゃないですか。

ーーそれってブラックな体質を抱えている業界に共通する課題ですよね。出版界も同様かもしれません

そうだと思いますよ。ぼくにインタビューに来るメディアの人たちも、「うちの業界も似たようなものですよ」ってみなさん自嘲気味に言いますもん。だったら、それぞれの現場で声を出せばいいのに、と思います。

これまでの方法論がハラスメントを生む土壌になっているのであれば、誰かがそこで連鎖を断ち切らないと。ぼくは映画を愛しているからこそ、次の世代のために、できるだけこの業界をよくしておきたいんです。

白石監督

●ポリコレで表現の自由は狭まったか?

ーーハラスメント対策は、ポリティカルコレクトネスの文脈からも強く求められています。一方、ポリコレによって、いまは表現にさまざまな配慮が求められる時代にもなりました

それはハラスメントとは全然違う話ですよね。現場でのハラスメントは完全にNGであって、何がハラスメントかどうかを考える時の基準として相手へのリスペクトがあるわけです。

一方の表現内容におけるポリコレは、別に決して守らなくちゃいけないものではありません。表現の自由がありますから、それぞれが描きたいことを描いていいわけです。それで炎上しようがどうしようが構わないというならば、やればいい。その自由は守られるべきです。

ーーフランスのシャルリエブドがイスラム教を揶揄するような風刺画を掲載し続けたことで、2015年にテロが起こりましたが、そこで表現の自由を守れというムーブメントが起こりました

つくり手が何を表現したいかということだと思います。相手を否定するような表現をするのであれば、そこに対する覚悟が必要だろうと思います。それを見て、多くの人が面白いと思うのであれば売れていくでしょうし、多くの人の共感を生まないものは結果として市場的には淘汰されていくことになる。

人種差別をあからさまにしたような作品は、今や多くの人々に受け入れられなくなっている。だからつくられなくなり、結果としてポリコレへの配慮が進んでいくのだと思います。だからといって、表現してはいけないということではない。

ーーでも、言葉一つにも敏感にならざるを得ませんね

例えば、アメリカでは今、「メリークリスマス」という言葉を使わないわけですよね。多様な宗教に配慮して「ハッピーホリデイ」というのがスタンダードになっている。

そして、80年代を舞台にしたドラマなどでも、役者さんに「ハッピーホリデイ」と言わせていたりする。当時はそんなわけがないのに、そうやって作品の中で配慮をするんです。

なぜならイスラムの人にも仏教徒の人にもドラマを見てもらいたいから。広く作品を売りたいから。制作側が何を選択するかということでしょう。

一方で、たとえ大勢の人には理解してもらえなくても、これを描くんだ、という選択も、当然ですが守られるべきです。

大浦信行さんの映像作品『遠近を抱えて』は、昭和天皇の写真を使ったコラージュ作品を燃やした映像が話題になりました。「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」バッシングに連なる形で炎上し、最新作『遠近を抱えた女』を上映する映画館がなかなか見つからないということですが、たとえ商売的には苦戦が予想されても、あえてつくりあげたこの作品には、心から敬意を表しますし、仲間として誇らしい気持ちにはなります。

ただ、ぼくはやっぱり広く作品を見てもらいたいし、市場できちんと勝負できるものをつくっていきたい。そのためには多くの人たちに受け入れられやすい表現の形を追求します。その中で、まだまだ自分の表現したいことを作品に込められると思っていますから。

来年春スタート予定の『仮面ライダーBLACK SUN』でも、作品の世界観の中に社会的なテーマをぶち込んでいきますよ。楽しみにしていてください。

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