歴史に名を刻んだ国際派弁護士の見る「夢」 川村明弁護士ロングインタビュー


2010年、日本人としてはもちろん、東アジアから初めての国際法曹協会(IBA)会長が誕生した。就任したのはアンダーソン・毛利・友常法律事務所の川村明(かわむら・あきら)弁護士。そのニュースは一夜にして日本中に届けられた。2011年から2012年までの任期を終えた後も2014年に開かれたIBA東京大会のホストコミティ会長を務め、日本を代表する国際派弁護士として活躍する川村氏。従来の常識を打ち破り、新たな弁護士像を提示し続けるその活動の源泉と、グローバル化の進む世界において、これからの弁護士に必要なマインドはなにかを伺った、ロング・インタビュー。

アンダーソン・毛利・友常法律事務所

国際法曹協会前会長

弁護士 川村明氏

Akira Kawamura(弁護士ドットコムタイムズ<旧・月刊弁護士ドットコム>Vol.2<2015年11月発行>より)

目次

  1. 日本の弁護士は世界で通用する 英語の得手不得手は無関係
  2. 政治に絶望した学生時代 転機は偶然の中にあった
  3. 叩きこまれた多文化交流 自由な風土が柔軟な発想を育んだ
  4. IBA事務総長就任への打診 その道筋はたやすいものではなかった
  5. 徹底した草の根運動が後の海外ネットワークの礎となった
  6. 副会長を経てIBA会長に就任 2014年の東京大会は大成功に終わる
  7. 世界は日本の弁護士を待っている 弁護士の可能性を自ら閉ざしてはいけない

日本の弁護士は世界で通用する 英語の得手不得手は無関係


「日本の弁護士という資格は素晴らしいものなんですよ。

日本の弁護士というのは世界中で通用します。日本の司法試験がどれほど難しいものかということを、世界中の弁護士が知っていて、その難関を通った優秀なリーガル・プロフェッションだと、彼らは我々をそういう目で見てくれる。英語が苦手だって関係ないんです。

皆さんにもっと世界に出ていって、グローバル・プロフェッションになってほしい」

川村明氏。弁護士界の国連との異名を持つ世界団体、国際法曹協会(以下IBA)の会長に東アジアで初めて就任。日本にとどまらず、世界中を駆け巡りグローバルに活躍を続ける国際派弁護士の第一人者である彼が語るメッセージは説得力に満ちている。

いま、アジア・パシフィックの法曹界は大きな転換期を迎え、かつてないほどのビジネスチャンスが広がっている。それにもかかわらず、その大波の中に日本人の姿が見当たらないことに、川村氏は歯がゆさを感じている。「これまでアジアはリーガルサービスに遅れていましたが、その情勢に変化が訪れています。

2011年、オーストラリアの大手法律事務所マレソンズ・スティーブン・ジャックは中国大手の法律事務所、金杜(キング・アンド・ウッド)と合併し25ヵ国に支店を持ち3,000人あまりの弁護士を擁する巨大ファームになりました。
 

ところが、アジア・パシフィックにもっと巨大なローファームができようとしています。

2015年、中国トップの法律事務所である大成(ダ・チェン)と世界的法律事務所のデントンズが合併して、世界50ヵ国に6,500人の弁護士と専門家を擁する新しい法律事務所が誕生しようとしています。弁護士数で、世界最大の法律事務所です。これらのことが、いま、まさにアジアで起こっているんです。

では日本ではどうか。中小企業もどんどん海外へと出て行く時代に、彼らにきちんとリーガルサービスを提供するような準備はできているのか、まだまだ、心もとないですよね」

全世界的な視野を持って弁護士としてのあり方を俯瞰する。川村氏の慧眼の秘密を紐解くためには、その半生を振り返ってみる必要がある。

政治に絶望した学生時代 転機は偶然の中にあった


川村氏が歩んできた道のりにはいくつもの転機がある。その転機が「幸運な偶然」に満ちていたことに、日本の法曹界は感謝するべきなのかもしれない。

「僕はもともと、学生運動を熱心にやっていたんです。1960年代の安保反対運動!

デモや反対運動は盛り上がったけれども、結局何も変わらなかった。現在の安保法制問題とそっくりの時代だったんです。もう政治じゃないなと思ったんです。これから社会を動かすのは経済、それも国際経済だろうって」

そんなときちょうど、母校である京都大学ではふたりの教授が教鞭を振るっていた。

ひとりは道田信一郎教授(法学者。1988年没)。道田教授は国際ビジネス法を專門にしており、川村氏はその考え方を学んだ。

二人目は溜池良夫教授(法学者。2014年没)。溜池教授から、川村氏は国際私法の薫陶を受ける。

「講義を聞いて、非常に面白いなと。全然日本と違うじゃないかと。

先生方がおっしゃるような世界が訪れるとは、当時はとても思えなかったけど、面白いと思ったんですよ。

国際法律問題を扱う考え方とスキル、これをお二人から教わった。今から思えば、これが僕の職業人生を決めるきっかけになったのかもしれませんね」

弁護士・川村明氏のキャリアは1967年に現在のアンダーソン・毛利・友常法律事務所の前身、アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所からスタートすることになるが、ここでも幸運の女神が微笑む。

「僕らの時代、司法研修所が紀尾井町にあったんです。そしてアンダーソンの事務所は平河町にあった。平河町と紀尾井町って道一筋の違いなんです。

ある日、友だちが『あそこで募集しているらしいよ』とアンダーソンのことを話すんです。それは面白そうだなと思ってね。事務所名もカタカナだし(笑)。それで友人と一緒に話を聞きに行ったんです」

面接の結果、川村氏は合格、入所を決めた。

面接時、当時まだ在籍していたアーサー・一雄・毛利弁護士の言葉を、川村氏はいまも覚えている。

「毛利先生は親しみやすい方で、僕にこう言うんです。『川村さん、あなたはまだ若いんだから、こういう事務所に来て2〜3年やってみなさい。自分に合わないと思ったら辞めて、日本の弁護士になってもいいじゃないですか。嫌になって辞めても遅くはないよ。ここでの経験は、日本の弁護士になっても必ず役立ちますよ』とね。

いまから振り返っても、毛利先生のお言葉に間違いはなかった。それほどの経験をさせてもらいました」

叩きこまれた多文化交流 自由な風土が柔軟な発想を育んだ


アンダーソンでの生活は刺激に満ちていた。当時、すでに東京で最大級の規模を持ち、勢いもある。

そしてなにより、事務所内の自由な風土が川村氏にとって魅力的だった。

「海外のお客さんとやり取りするわけだから、文化の違いを超えて相手を説得しなければならないわけです。

クロスカルチャーのコミュニケーション、これは最初の段階ですごく学ばせてもらったし、面白かったね。

一方で、司法研修所で学んだ知識がほとんど役に立たなかったのにもびっくりしたね。実際の問題は六法に合わせては起こってくれないことがよくわかった」

仕事へのモチベーションは業務の成果と比例する。成果が出るのに合わせて、川村氏の毎日はさらに充実していった。

「みんなが納得してくれるわけです。外国人が納得してね、わかったと僕の言うことを聞いてくれる。

当時、訴訟だけではなく、合弁契約や合弁会社の経営についても、アメリカやイギリスから来た方々が戸惑っていたんです。日本人はなぜこんなことをするんだろう、この契約がなぜ通らないんだろうと。こういう悩みを説得したり、納得させたり、逆に日本側を説得したり、こういう仕事がね、最初は多かった。とてもやりがいを感じましたね」

若い川村氏にも大きな裁量を与えられ、自由に業務を遂行できたことも大きかった。

当時、最大級の規模と言っても20名程度。先輩はあまりいなかった。ほとんどが同輩クラスという環境下において、自ら考え、悩み、解決法を模索していく必要があった。

「大先輩といっても濱田邦夫先生(現、日比谷パーク法律事務所客員弁護士)、そんなにお年寄りというわけでもない。

また、僕は日本の弁護士で、毛利さんやラビノヴィッツさんは日本の弁護士ではないから、いろいろ言うけれども、最終的には任さざるをえないんですね。

こうやれ!と命令するわけにはいかない。

こうと違いますか?これに注意したほうがいいですよと言うだけなんだよね。すごく自由で、独立だったんだよ」

IBA事務総長就任への打診 その道筋はたやすいものではなかった


その後、オーストラリアへの留学を経て、1976年にはアンダーソンのパートナー弁護士に就任する。次に大きな転機が訪れたのは1985年。第二東京弁護士会副会長への就任だ。この就任をきっかけに、東アジア初のIBA会長就任へのレールが敷かれていくことになるが、当時の川村氏は当然知る由もない。

「二弁の副会長に就任した直後、国際問題の担当になりました。当時、外弁制度の始まりの時期だったんです。 外弁問題担当の副会長になって、その直後に今度は日弁連の外弁担当常務理事にもなった。外弁畑をずっと歩むことになったんです。

外弁法立法にあたって、担当者として関係省庁といろいろと交渉していくうちに、国内で抵抗しているだけではダメだと思い始めたんです」

きっかけのひとつは、1994年に妥結したGATS(サービス貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド交渉だった。

「このウルグアイ・ラウンド交渉が土壇場になって妥結できないかもしれないっていうんです。その原因は、最後に残った日本のコメと弁護士だと。これは弁護士のせいにされたらかなわないと思って、ジュネーブに行って、関係国のアメリカ、EUの代表団と交渉のテーブルに付いたんです。

アメリカやEU、それぞれと交渉するバイではなく、多国と一活で交渉するマルティの方式をとったんです。

そうしたら、多国間で見ると、日本は自分たちで想像していたよりずっと開放されていた。すべてが満足とは言わないけど、日本はよく頑張っているじゃないかと。日弁連はパスになって、弁護士問題は日弁連の提案していた形でまとまったんです。

これでわかったのは、国内で抵抗しているだけではダメなんだと。相手のところに向かっていかなければならないと。しかも、アメリカだけを相手にしていては不利、多国間の交渉に持ち込まなければダメだと、これを学んだんです。

この交渉の中で日弁連の主張の説得力が認められて、ヨーロッパの弁護士会からも『川村というやつはがんばる』と言っていただいた。そのうち、『アキラ、IBAの事務総長に立候補しろよ』と電話がかかってきたんです。IBAの事務総長なんて、どういうものか全く知らなかったので、びっくりしましたが」

徹底した草の根運動が後の海外ネットワークの礎となった


International Bar Association、通称IBA。日本では国際法曹協会と呼ばれる。

1947年に設立され、世界各国の弁護士会および個人の弁護士が加入する、世界最大の国際法曹団体だ。2014年時点で55,000名以上の個人会員と、170以上の法域にわたる200を超える弁護士会が加盟している。「事務総長をやれと言われても、IBAには顔を出したりはしていたけれど、それほど興味もなかった」と、川村氏は笑う。

「どうしようかなと悩んでいると、本林徹先生(日弁連元会長)から電話がかかってきたんです。

『自分のところに川村をIBAに出せと電話がかかってきた。オレのメンツをつぶすんじゃないぞ』って(笑)。

これは義理もあるなと(笑)。せっかくだから、立候補しようと決めました」

出馬して欲しいと依頼された。本林氏の元にも推薦の電話があった。周囲も盛り上がっている。これはきっと簡単になれるものだろうと考えていたら、実際には大違いだった。

「ちゃんと対抗馬がいて、その彼も降りないんですよ。しかも、そのライバルは僕と違って、それまでずっとIBAで活動していて、IBAの規則も作った偉い人だった(笑)。英米系の弁護士界の支援を受けた強力な相手だったものですから、慌てましたよ」

選挙活動が始まっても、何をすればいいのかわからない。

誰が投票するのかもわからない。

でも出るほかない。

「ノウハウも何もありませんから、とにかくあっちこっちと全世界を回って挨拶に行きました。何ヵ国回ったかも覚えてない、それくらい行きました。

当時、IBAのメンバーは137ヵ国の弁護士会だった。地道に各国の弁護士会の大会に出向いて『よろしくお願いします』『私はこういうことをやっていきます』と、直接話しに行きました」

徹底した草の根運動の結果、全投票の75%にもおよぶ票数を獲得し、圧倒的大差で事務総長に当選する。

「選挙運動を始めた直後は、僕の名前なんて誰も知らないわけですよ。

でも続けていくうちに少しずつ反応が良くなってね、ある時、出会った見ず知らずのアフリカ系の理事がね『ハイ、アキラ、オレたちはお前に入れるよ』と言ってくれるわけですよ。これはうれしかったね」

2007年から2008年の2年間、川村氏はIBAの事務総長として活動していく。

副会長を経てIBA会長に就任 2014年の東京大会は大成功に終わる


国際化が進んでもアジア地域にはいかんともしがたいハンディキャップがある。

「ほぼどの国も英語が苦手だよね。程度の差はありますがね。

中国だって英語できる人はいっぱいいるものの、英語を話せる弁護士自体は少ないよね。

ある人は『アキラをIBAの会長にしなければ、当分アジアから出てこないよ』と言っていたね。

実際、僕の見たところでも会長までやろうというアジアの弁護士はいなかった」

事務総長から副会長を経て、2011年に川村氏はIBAの会長に就任する。東アジアから初の会長がここに誕生した。

「そのまま横すべり的に勝ったんですよ。事務総長以降の選挙は誰もチャレンジしてこなかったんです」

川村氏が会長職を務めていた時期は、グローバル経済の発展とともにIBAへの関心が高まり続けた、まさにその時期だった。

「東西の冷戦が終わり、経済がグローバル化していくのにともなって弁護士、リーガルサービスも国際化していきました。そこで、各国の弁護士が集まって情報交換したり、ネットワークを作って手を組んだりといった必要が出てきました。

IBAでは、各国の弁護士業の問題とか、裁判所の独立とか、法の支配とか、あるいはM&Aとか金融法とか、個別の法律の研究とか、実に多様な活動を推進していきました」

2014年、川村氏が日本に撒いた種が大きく花開いた瞬間を迎える。

10月、IBA東京大会が大々的に開催され、世界各国から6,500名を超える弁護士が集結した。

「日本からも650名の弁護士が参加してくれました。国際化への関心が高まっているのを実感しましたね。

IBAについての関心も高まったけれど、弁護士は世界中同じことをやっているんだ、英語さえ話せれば、最先端の情報がどんどん手に入るんだ。

自分のクライアントも外国に行くけれど、そのときは助けを求めることができる、IBAの人脈に実益があるといったことを、多くの日本人弁護士も理解したんです。これは大きな成果でした」

世界は日本の弁護士を待っている 弁護士の可能性を自ら閉ざしてはいけない


IBAの役員を長年務めるなかで、海外を常に渡り歩いた結果、移動総距離は地球50周分を軽く超えた。

世界の現状をつぶさに見た結果、川村氏は日本の弁護士界に対して、物足りなさを感じている。

「弁護士、リーガル・プロフェッションのマーケットや職場は、もはやグローバルなんですよ。世界中にある。

弁護士の仕事は、グローバルで、ユニバーサルになっているんです。世界中で、いろんなことをやることが求められているんです。つまりキャリア・ディベロップメントの可能性がすごく広い。

弁護士という職業は、世界中に共通しています。弁護士が120万人もいるアメリカに行っても、日本の弁護士は一目置かれるプロフェッショナルなんです。

弁護士が世界で求められている仕事の範囲は広い。

国際機関でも求められている。世界の人権問題のための仕事も無限にあります。グローバルM&Aもできるし、金融商品を作ることもできる。すごく面白い仕事なんですよ。

ところが、日本の司法研修所では、訴訟や六法についてのトレーニングに特化しすぎているのではありませんか?中小企業だってどんどん海外へと出て行く時代に、日本の弁護士がきちんとリーガルサービスでサポートする体制はあるのか、大変心もとないですね。

日本の弁護士、法律事務所がもっと世界に目を向けて、大胆な計画を持って、国際マーケットに進出するようにならないといけないと思います。できないわけがないんだから。そのためには、その国際マーケットの実情を具体的に知っている必要がありますね。そして、ロースクールはそういう国際弁護士のスキルを教育する必要があります。

視野を広く持つ、これからの日本の弁護士が世界で羽ばたく姿を早く見たいですね」

日本が誇る優秀な弁護士たちが、世界の空を縦横無尽に駆け巡る−。

川村氏が見る「夢」の続きは後進に託された。

Profile|川村明氏 京都大学法学部卒業。弁護士。1967年弁護士登録(第二東京弁護士会)後、1985年に第二東京弁護士会副会長、1986年に日本弁護士連合会常務理事、1996年から1998年にかけて日本弁護士連合会外国弁護士及び国際法律業務委員会委員長など、要職を歴任後、2005年に国際法曹協会(IBA)常務理事世界弁護士会問題評議会常任議長に就任。以降、2007年から2008年に事務総長、2009年から2010年の副会長を経て、2011年から2012年には東アジア初の会長を務める。2012年旭日中綬章叙勲。世界陸連(IAAF)倫理委員、公益社団法人日本仲裁人協会理事長、多数の会社の監査役・取締役を勤めるほか、著書多数。
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